山田暢彦先生インタビュー(3) 日本語と英語を話すバイリンガルとしての幼少期。そして、大学卒業後に独立し、著書を出版するまでの苦労の道のり

山田暢彦先生

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この記事は下記の記事の続編です。
山田暢彦先生インタビュー(1) 『中学英語をひとつひとつわかりやすく。』40万部越えベストセラー本を執筆した理由
山田暢彦先生インタビュー(2) 瞬間英作文を大きく発展させた 『英語のスピーキングが驚くほど上達する NOBU式トレーニング』

アメリカ生まれ。アメリカ育ち。大学から日本へ

(柴田 @HAL_J)山田先生の生い立ちについて教えてください。

アメリカのニュージャージー州という、ニューヨーク州の隣の州で、4人兄弟の末っ子として生まれ育ちました。父はパナソニックに勤務しており、VHSという昔のビデオ機器の販売でアメリカに来てから、ずっとアメリカ滞在です。父も母も日本人だったので、家では日本語、外では英語という生活でした。

小学校時代は、現地の学校で英語のみで学習していましたが、日本人は周りにいませんでした。ごくたまに、Jap, Nipなどと日本人に対する差別語をかけられることがありましたが、楽しい小学校生活だったと思います。

中学1年生からは日本人学校に入り、日本語を使うようになりましたが、初めは漢字が苦手でした。できないことを馬鹿にされたことで、漢字を一生懸命勉強しました。今では日本生まれ日本育ちの友人よりも漢字が得意になりました。苦手意識をうまく活用して学習出来た例だと思います。

高校は、ニューヨークにある慶応大学の付属の高校に入り、その後日本の慶応大学に進みました。

(柴田 @HAL_J)アメリカ生まれ、アメリカ育ちで日本の大学に進むのは珍しいですね。

よくそう言われますが、私にとっては日本が母国だという思いがあります。幼い頃、父の故郷の熊本県の田舎に連れていてもらい、小学校に体験入学させてもらったのですが、その時の良い印象が強かったですね。小学校の校舎の匂い、通学路でおたまじゃくしを発見した驚き、日本の自動販売機やコンビニの凄さ、そうしたものから日本文化への親しみが育っていったのだと思います。

(柴田 @HAL_J)慶応大学を卒業した後に独立されたのですね。

『英語と日本語がどちらも話せる』『TOEIC満点』『慶応大学卒』ということで、就職活動は外資の金融機関にでも入ろうかと漠然と考えていたのですが、就職サイトを調べてみると行きたい会社がありませんでした。会社員として会社に所属するイメージが沸かなかったこと、そして会社紹介を読んでも「この会社で働きたい」という情熱が持てなかったのです。よって、私の就職活動は5分で終了しました(笑)。

企業に就職しないとしたら、何をするかを考えたところ、私は『言葉が好き』で、そして『教えることが好き』だということに気が付きました。言葉を教える、ということで私の英語学校を始めようと思い、はじめは大学の友人を教えるところからはじめました。慶応大学の入試を突破した友人でも、英語はなかなか難しいということを知り、学校を作ることを決心し、自分の英語学校を設立しました。

(柴田 @HAL_J)英語学校とアルバイト掛け持ち生活から一転、ベストセラー本の著者に仕事が軌道に乗るまでは、どのように過ごしていたのですか。

大学時代から、テレビ局で夜勤のアルバイトをしていました。英語のニュースなどを日本語に訳す仕事です。この仕事が月5回で10万円でした。卒業後もこのアルバイトを続ければ、家賃分はなんとかなるので、他の生活費は英語学校で稼ごうと。

生活に余裕が無かったので、学研で働く友人が、学研でのアルバイトを紹介してくれました。はじめは、データ入力の仕事や、雑誌の読者プレゼントの発送宛名書きなどをやっていましたが、英語が得意ということで英語の校閲などの仕事もアルバイトとして依頼されるようになりました。そこから、学研が出す英語リスニング教材の作成に関わるなどしていき、27歳のときに「英語学習の本を出してみませんか」という話を頂きました。

目の前の小さなことを一生懸命にやっていたら、点と点がつながって線になったような感覚があります。振り返ると、「こうしたい」というビジョン、行動力、勇気を評価してもらったのかもしれないですね。

(柴田 @HAL_J)辛い時期はどうやってやる気を維持していましたか。

私はおそらく、「私は私だ」という気持ちが強いのだと思います。大学の同級生や、友人が活躍していて良かったな、と思うが、私の苦しい状況とは比較しなかったのが良かったですね。とにかく、私がやっている英語学校で、目の前の生徒の英語力が、どうすれば伸びるかを基本的に考えていました。目の前の仕事に最善を尽くすことが次につながるのだと思います。その結果、生徒さんが次の新しい生徒さんを紹介してくれました。

アルバイトのデータ入力、宛名書き、といった仕事についても、目の前の仕事に最善を尽くしました。金銭的に苦しい時には、銀行口座の残高がかなりぎりぎりになったこともありましたが、「とにかく頑張らなくては。この仕事をやれば10万円。10万円あれば生き延びられる」と私を鼓舞しました。

先のことをやたら心配しても仕方ないので、とにかく目の前のことを頑張る。自分で選んだ道なのだから、徹底的にクオリティーにこだわって自分が納得のいくまでやる。常にその気持ちでしたので、現実の状況は “ピンチ” でも、不思議と心の中では辛いと感じることは一度もありませんでしたね。むしろ、「自分で道を切り開いているんだ」ということをリアルに実感できて、それを楽しんでいる部分さえありました。

(次の記事)山田暢彦先生インタビュー(4) 「英語学習初心者が気をつけるべきこと」と「フィリピン・セブ島留学の現状」について

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執筆者

村岡英一

北海道生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒。 日本マイクロソフトにて法人営業、ならびマイクロソフトのアジア諸国のシステム導入を行った後、フィンランドのソフトウェア企業にて、日本・台湾・東南アジアのビジネス開拓を行った後、現在フリー。